伊勢 盛 頼。 伊勢盛定

貞藤が追放された際、貞藤と行動をともにした。

『北条記』『』に見える早雲駿河下向時の一節には、、、・・・らの仲間6人()と、で神水を酌み交わして、一人がになったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。

旅先にある私のもとへ、古郷からの音信はなくて、ただ秋の夕べの景色ばかりを想い出のよすがにせよとて、風ばかりを吹いて寄越す。

ハンサムな顔立ちで従妹の伊都は結婚するなら兵庫助様よりいい男でなければ嫌と言い、盛定は「兵庫助殿が今でこそ女房子供がいて取りすました顔をしているが若いころは」と陰口を言うことで伊都を諭した。

京都で東西両軍の和睦がほぼ成立し、応仁の乱終わる。

幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。

後の小田原北条氏の祖なり、氏茂と改む。

黒田基樹「早雲、下克上の背景」『戦国合戦大全(上巻)』、1997年。

この義廉の廃嫡問題に盛定が深く関与し、斯波氏が守護に就いていたののや、の申次として連絡を取っており、が起こると遠江は早々に貞親が支持する義敏の支配下になった点が指摘されている。

新九郎の外出で警護が必要な際に同行することが多い。

なお、同年の8月25日にと津波で伊豆・駿河両国は大被害を受けており、震災で深根城一帯も甚大な被害を受けて抵抗不可能になった茶々丸を早雲は動員可能な少数の手勢で討ち取ったとみられており、この際に茶々丸を擁していた城主のらを皆殺しにして力を示したとされる(ただし、茶々丸の死去地を甲斐国とし、深根城の皆殺しは別の出来事とする見方もある)。

相川司『戦国・北条一族』〈Truth In History 17〉、2009年。

そして、戦国時代に至るまで軍事拠点として楯山城と一体となった支配網を構築していたと考えられる。

それが「叔母」の北川殿であった。

「平井文書」『井原市史3 古代・中世・近世史料編』収録• 参考文献 [ ]• だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲の陣営と、足利義稙--足利茶々丸--の陣営、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。

明応2年 62 38 伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃。

なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟であるが所領の没収と化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれている事が注目される。

またこの縁で新九郎の弟弥次郎も細川家に出入りすることとなった。

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